2007年04月09日

袁紹

無双OROCHIの武将 袁紹

名門の出だが、無双シリーズでは完全なお笑いキャラな感がある。そこが一部のファンには人気なようだが・・・

武器:宝剣
声:龍谷修武 一人称:私 字:本初

名門中の名門・袁家の頭領。華北に大軍勢を擁して曹操と対峙した。事あるごとに「名家」を誇る尊大な人物として描かれるが、どこか滑稽で憎めない男。興奮すると裏声が混じり、その裏声も絶妙なため、一部のファンに絶大な人気がある。
名族=頭が固いという事なのか、頭突きを多用する。威力を高めたいのか兜もとがった形をしている。

袁紹(えんしょう、生年不詳 - 202年)は中国の後漢末期の武将・政治家。三国志に登場する群雄の一人。字を本初(ほんしょ)と言う。大将軍の何進と協力して激しく宦官と対立し、董卓の乱の際には首都の洛陽より奔って河内にて兵を挙げた。後に河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れた後、病死した。

息子に、袁譚、袁尚、袁煕らがいる。孫は袁買。豫州汝南郡汝陽県の出身。

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董卓

無双OROCHIの武将 董卓

完全なる悪者。ゲームとしても非常にわかりやすいキャラクターだと思う(笑)

本作でも、オロチの手先としてさんざん敵役として活躍してくれます。

武器:獄刀
声:堀之紀 一人称:わし 字:仲穎

都の混乱に乗じて漢王朝を牛耳るのに成功した恐怖の暴君。大義や理想ではなく酒池肉林の欲望のためだけに戦う。下劣で狭量な悪党だが、宦官の仕業に見せかけ何進暗殺を謀るほか、戦場では的確な指示を飛ばすなどなかなかの切れ者である。彼の専横を阻むべく結集した諸侯の連合軍を打ち破り、野望を実現せんと目論む。
巨漢のため、作品によっては体重を利かした独特の攻撃方法を繰り出す。総じて移動力は低め。

武将紹介

董卓(とう たく、ピンインDŏng Zhuó 生年不詳 - 初平3年4月23日(192年5月22日))は後漢末期の軍人・政治家。字は仲穎(ちゅうえい)。董紹(字・君雅)の子。兄に董擢(字は孟穎か伯穎)、弟に董旻(字・叔穎)がいる(その下に董承という弟がいたという説もある)。子の名は不明。甥に董、孫娘に董白がいる。隴西郡臨(は、さんずいに兆)の出身。献帝を擁し、宮廷で権勢をほしいままにしたが、養子の呂布に殺された
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曹操

無双OROCHIの武将 曹操

通常三国志シリーズのゲーム、もしくは三国志の小説等では蜀の敵として描かれることが多く、またある意味では主役級の活躍をしていた曹操ですが、無双シリーズでは最初から使えるキャラに設定されていないことも多いです。

今作でも、使えるようになるのは魏のストーリーモードをかなり進めていかないといけません。

武器:将剣
声:岸野幸正 一人称:わし 字:孟徳
魏の礎を築いた覇王。卓越した戦略で袁紹を初めとする群雄を次々と打ち破り、三国中最大の勢力を築いた。徹底した合理主義と大胆な行動力を併せ持つ。「乱世の奸雄」と恐れられているが、忠実な部下達には激励を欠かさず、一度は敵対した武将であろうと有能な人物は残らず招き容れる度量がある。恩義を返し劉備の元に返ろうとする関羽を引き止めず見送るなど、深い温情も兼ね備えている大器である。

モーション自体はオーソドックスだが、「2」では第四武器を装備した状態でのチャージ6攻撃が対武将戦において凶悪な威力を発揮する。

武将紹介
曹操(そう そう、Cáo Cāo, 155年 - 220年1月23日)は、中国後漢末の武将であり政治家、詩人である。字は孟徳、ドリルツインテール、背ちっこい、沛(はい)国(しょう)県(現在の安徽省亳州市)の人。幼名は、阿瞞また吉利。後漢の丞相、魏王で三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩は夏侯氏であったが、中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継いだ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。魏将、夏侯惇、夏侯淵とは従兄弟にあたる。

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諸葛亮

無双OROCHIの武将紹介 諸葛亮

ビームで敵を攻撃することで有名。通称諸葛ビーム。
今回はOROCHI軍の軍師という敵としての役回りになることが多い。

武器:羽扇(白)
声:小野坂昌也 一人称:私  字:孔明

「臥龍」の異名を持つ天才軍師。劉備に仕え、蜀の建国に貢献した。礼と義を重んじる丁寧で穏やかな話し方が特徴。ライバル司馬懿とは好対照を為す。

攻撃範囲は狭く、隙もあるがビームで離れた相手にも攻撃ができる(無双乱舞ではホーミング機能付きビームを連射する)。「3」以降はビームの威力も高まったが、総じて上級者向けといえる。


武将紹介

諸葛 亮(しょかつ りょう、ピンイン: Zhūge Liàng、181年 - 234年 8月23日)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍略家。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。

伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。

妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛虔・諸葛原(景春)らがいる。また『三国志』裴松之注に引く『襄陽記』によると、諸葛瞻以外に諸葛懐という息子と諸葛果という娘がいたとされる。なお、諸葛八卦村という村の住民は諸葛亮の子孫を自称している。

なお日本においては諸葛亮孔明と記されることも多く、中国武将の名称表記の誤用例として頻繁に挙げられている。こうした姓名字を連ねた用法は中国においてはなされない、という指摘であるが、日本には姓名字を連ねて名乗る用法が古くからあり、日本語として口にする限りは間違いではないとする意見もある。

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2007年04月08日

劉備

無双OROCHIの武将 劉備

本来の三国志では主人公的キャラクター。三国志の主人公が彼だと思っている人は筆者だけではなかろう。実際ゲームでもクセのない使いやすいキャラクター。無双OROCHIではとらわれの身でなかなか登場しません(泣)

劉備の紹介

武器:尖剣
声:遠藤守哉 一人称:私  字:玄徳

貧しい草鞋売りの家に生まれたが、前漢の中山靖王の末裔で乱世に仁の道を切り開こうとする。

情に深くて義に篤く、大徳と評される。その度量と人徳によって多くの名将、軍師を惹き付けた。敵対者からは「偽善者」「似非聖人君子」などと罵られる事も多い。義弟たちの死に激怒しては暴走することも。

騎乗馬は主に的蘆。
やや非力では在るものの、使いやすさにおいては秀逸である。

劉備(りゅう び ピン音 : Liu Bei 161年 - 223年、在位221年 - 223年)は、中国、後漢末から三国時代の武将。蜀(蜀漢)の初代皇帝。字は、玄徳(げんとく)。 諡号は、昭烈帝(しょうれつてい)。 家系は劉氏。

概要

前漢の中山靖王劉勝(景帝の皇子)の庶子の陸成亭侯・劉貞の末裔と称した。黄巾の乱以後の混乱の中で関羽・張飛などを従えて頭角を現し、諸葛亮などの補佐を得て蜀漢を建国した。

「正史」『三国志』では、劉備を諡号の昭烈帝ではなく、“先主”と呼んでいる(廟号は不詳、『蜀書』「先主伝」。なお、二代目劉禅は後主)。これは『三国志』が正統としているのは魏であるので、正統ではない劉備を皇帝としては認めない所以である。后妃に穆皇后呉氏(呉壱の妹)、糜夫人(糜竺の妹)、甘貴人、孫夫人などがいる(その他多数)。子に後継者の劉禅の他、劉永・劉理がいる。同時に、劉封を養子(実子説あり)にしていた。また、少なくとも二人の娘がいた(曹純の捕虜になる)。

系譜について

劉備は自ら前漢の第六代皇帝景帝の第八子の中山靖王・劉勝(生年不詳 - 紀元前113年没)の末裔と主張していた。劉勝は劉貞を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前117年に郡県の列侯として爵位を賜った。だが、紀元前112年の年始(正月)頃に、彼は皇族のみに課された漢朝への上納金を納めなかったために、叔父の武帝の逆鱗に触れてしまい、侯の地位を取り上げられそのままに住居していたという。そのため、系図もそこで止まっており、劉備との系図の繋がりを確認することは出来ない。以降の劉備の家系は歴史研究学者の事実に基づいた検証の積み重ねの成果と、まだ発掘されてない当時の記録書が発掘されることを期待するのみである。

その一方で、当時の後漢では前漢以来の歴代皇帝の末裔に対して幅広い税の減免が認められていたため、一般の住民が勝手に漢の皇帝の末裔の証しとも言える劉姓を名乗る事は重大な違法行為であり、もちろんそのような事を行なうことは困難であったとされている。そのため、劉備の主張を単純に嘘と決め付ける事は出来ない。

また、中山靖王・劉勝は淫色に耽った王として有名であり、子は50人以上もいたため、約三百年後の当時には中山王の末裔は中山国を初め、郡や常山郡などに拡がっていたと思われる。仮に劉備が中山王の末裔だとしても、あまり価値はなく劉備同様に没落して庶民同様に零落した家は珍しくなかったと思われる。 逆に言えば、劉備が中山靖王の末裔だった可能性も充分にあると言える。

なお、『三国志演義』では献帝の前で、劉貞から劉雄までの間の13代を読み上げられるシーンが書かれているが、これはもちろん創作である。

史実の劉備

若き日

(たく)郡県(現在の河北省張家口市鹿県(鹿鎮))の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備が幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。

劉備は背が七尺五寸(172.5cm)身体的な特徴として腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う。また、現在残されている肖像画では立派な鬚を蓄えているが、『蜀書』「周羣伝」にある張裕との会話によると、張裕は劉備の髭を見て見栄えがよくなく、貧弱の印象があったと述べている(後に劉備はそのことを根に持ち終始忘れず、劉備が皇帝に即位すると過去の罪を上げて、張裕を処刑したという)。

渡辺精一著『三国志人物鑑定辞典』には、≪「膝まで垂れる長い手」は、 『手を動かせる範囲が広い』≒『多才』と解釈することが出来、自分の耳を見ることも出来る目は、細かい所までよく見ることが出来るという意味に取れ、『聡明である』意味に解釈出来る。≫というような事が書かれている。


幼い時に天子が乗車する馬車を見て劉備少年は「僕も大きくなったら、あれに乗るんだ」と言った。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が甥の口を塞ぎ「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという。

15歳の時に母の言いつけで、従父(叔父)の劉元起(劉雄の甥)の援助を得て、その子の劉徳然(劉備のいとこ)と共に、同郷で儒学者として有名な廬植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に遼西の豪族の庶子の公孫がおり、劉備は公孫に対して兄事しており大変仲が良かったという。

しかし、劉備はあまり真面目な生徒ではなく、勉学よりも、乗馬や闘犬を好み、仲間達の中でも見栄えがある服装で身を包んだ。男伊達を気取り豪侠と好んで交わりを結び、劉備の周囲には多くの若者が集まるようになった。後に中山の豪商・張世平と蘇双とは馬を商って諸国を回っていたが、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。劉備はこの金で人数を集めてその頭目となっていた(或いは、張世平と蘇双の両人は劉備の旧知ともいわれる)。

ちなみに吉川英治の『三国志』では、中国の各地を出廻り、筵を売り渡る母想いの真面目な青年となっている。

決起

黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍らと共に義勇軍を結成し名を上げた。その功により安熹県[1]の尉(警察)に任命された。しかし、郡の督郵が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立てて督郵を襲撃し、柱に縛り付けて杖(じょう)で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。

その後、公孫の元へ身を寄せ、公孫から別部司馬とされ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。戦功をたてたので、公孫は劉備を仮に平原の県令(長官)にして、その後平原国の相[2]とした。

公孫は袁術と手を結んでおり、192年、袁術と袁紹が決裂すると、袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。だが、全て袁紹と、袁紹に味方していた曹操に撃退された。

この頃、地元の平原の人で同姓の劉平は劉備の配下になるのを不快に感じて、刺客を派遣した。そうとは知らずに劉備は刺客を手厚くもてなした。劉備の器量に感激した刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。

193年、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めて来たので、田楷と劉備は陶謙の元へと向かい、劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。

194年、曹操は本拠地が呂布に奪われたために撤退し、陶謙は命拾いをした。このため、陶謙は劉備を豫州刺史に推挙して認められた。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとしていた。劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に孔融・陶謙の推薦で、北海郡の人の孫乾を参謀として迎えた。

この時に曹操に敗北した呂布が徐州へやって来たので、迎え入れた。その後、袁術が攻めて来たのでこれと対峙し、一ヶ月が経過した頃、下の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。196年に楊奉と韓暹が袁術の配下となり徐州・揚州付近を荒らしたために、一計を案じた劉備は、酒宴と称して楊奉・韓暹を徐州と揚州の境目にある海西に招待し、これを謀殺したという。韓暹は命からがらに逃げ出したが、翌年に旧知の張宣に暗殺された。その首級は劉備に届けられたという。

流浪

だが、ここで兵を集めたことを呂布が不快に思い、攻めて来たので逃亡し、曹操の元へ身を寄せた。ここで、曹操は劉備の器量を評価して優遇した。しばらくして曹操が上奏し、劉備を豫州の牧に任命して再び小沛に入らせた。だが再び呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下高順に撃破され、劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して呂布を攻めてこれを生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少し躊躇ったが、劉備は呂布がかつて丁原と董卓を殺したことを挙げて諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「こいつが一番信用できないのだぞ!」「劉備め!かつての恩を忘れたか!」と罵詈雑言を浴びせたが、結局、斬首刑に処せられることとなった。

劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。 曹操と歓談していた時に曹操から「天下に英雄といえばあなたと私だけだ。袁紹などでは不足だよ」と評されている。

この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊、路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。やがて袁術が討伐途中で死去したため、そのまま徐州に居残った。

劉備は朱霊らが帰還した後に、下の守将車冑を殺して徐州を領有し、下の守備を関羽に任せて自らは小沛に移った。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱、王忠の両将を破った。

だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われる。

袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才(孝廉の科目の一つ)に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。袁紹が曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので劉備はこれに合流して曹操の後背地を荒らしまわった。この時に関羽が曹操の元から逃げ出して劉備のところへ帰ってきた。

その後、曹仁により撃破されて袁紹の所へ帰るが、最早、袁紹の元から離れたいと考え、「荊州の劉表に袁紹との同盟を説いてくる」と偽り荊州へと移動、そのまま劉表の元へと身を寄せた。

三顧の礼

劉表から新野城(現河南省南陽市新野県)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇、于禁の軍を博望にて撃破した。劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかった。そのため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許を襲撃するようにという劉備の進言は、劉表に受け入れられなかった。

この時期のエピソードとして裴松之の『九州春秋』からの引用で「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」と言う話がある。このことから髀肉之嘆という故事成語が生まれた。

この頃、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操・孫権に対抗するためにはこの荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となるべしという天下三分の計を説かれた。

劉表が没し、劉表の後を継いだ劉jが曹操に降伏した。諸葛亮は、劉jを討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。劉備が逃亡すると、周辺の住民十数万が付いてきた。そのため、その歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。諸葛亮が住民を捨てて早く行軍するべきだと劉備に進言したが再び「忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。

しかし、曹操の軽騎兵隊に追いつかれると妻子・民衆達を置いて逃亡し、関羽の軍と合流することで態勢を立て直し、更に劉gの軍と合流した。 孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は、孫権の説得に成功して同盟を結び、赤壁の戦いにおいて、曹操軍を破った。

赤壁の戦いの後、劉備は荊州を占拠し、最初は劉表の長子劉gを傀儡として上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉gが死去したために自ら荊州牧となった。劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきた。しかし劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと思ったのでこれを断った。

天下三分

211年、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために劉備の兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である法正と張松は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまえと勧めた。諸葛亮らもこの話に乗るように進言し、劉備もこれを受け入れた。

関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら統・黄忠・法正などを引き連れて蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない」と述べて退けた。

その後、劉備は兵を率いて前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。212年、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺して、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた。

初めは順調に進んでいたものの城にて頑強な抵抗に合い、一年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中に統が流れ矢に当たって死去し(三国志演義では落鳳坡で劉備と間違えられて射殺された)、援軍として急ぎ諸葛亮・張飛・趙雲らが駆けつけたことにより、ようやくを落とすことに成功し、さらに成都を包囲。劉璋は降伏した。こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。

これにより天下三分の形勢が定まった。

三国争覇

蜀を奪って安定した地盤を得た劉備であったが、それは孫権勢力からの警戒を買うことになる。元々赤壁の際に主要な活躍をしたのは孫権軍であって、孫権は、その戦果たる荊州は自軍のものと考えていた。劉備の荊州統治を認めていたのは、曹操への防備に当たらせるためであり、劉備の勢力が伸長しすぎることは好ましいことではなかったのである。

215年、劉備が蜀を手に入れたことで孫権は荊州を返すようにといってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら返します」と答えた。涼州は蜀の遥か北であり、劉備がこれを奪うことはその時点で不可能に近く、返すつもりが無いと言ったも同然であった。これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせ、両者は戦闘状態に入る。

しかし、その頃、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方は曹操の手に入った。このことに危機感を抱いた劉備たちは荊州の南三郡を割譲することで孫権と和解し、漢中の攻略を目標とすることになった。

218年、自ら軍を率いて漢中の夏侯淵・張を攻め、翌年に黄忠の活躍により漢中を占領する。その後、曹操の軍が漢中を奪還すべく攻めてきたが、篭城してこれを撃退した。

219年、漢中を手に入れた劉備は曹操が216年に魏王になっていたことを受けて漢中王を自称した。漢の高祖が漢中王を称した故事に倣ったものである。

一方、東では荊州を奪還するべく呂蒙たちが策を練っており、関羽が曹操軍の曹仁を攻めている間に荊州本拠を襲い、孤立した関羽らを捕らえ、これを処刑した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなる。

夷陵の戦い

220年に曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受ける。これに対抗して蜀の群臣は、221年に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀に作られた漢王朝であるため、後漢(東漢)、前漢(西漢)と区別し、蜀漢(季漢)とも言う。

蜀漢皇帝となった劉備は、221年孫権に対して親征(夷陵の戦い)を行なう。だが、翌222年夏、蜀漢軍は陸遜に大敗北し、自ら白帝城に逃げ込み、ここに永安宮を造営して逝去するまで滞在した。

ここで劉備は病を発し、病床に臥せってしまう。そこで劉備は丞相・諸葛亮と劉永・劉理ら諸子を呼び寄せた。諸葛亮には「君の才能は魏の曹丕に十倍する。わが子・劉禅が帝君としての素質を備えているようであれば、これを補佐してくれ。必ずや国に安定をもたらし、統一を果たしてくれると信じている。だがしかし。もし劉禅が補佐するに足りない凡器だと思ったのなら、君が取って代わって皇帝として国家を統率してくれ」と言い遺し、子供達に対しては「悪事はどんな小さなことでも行なってはいけない。善事はどんな小さなことでもこれを行なえ。お前達の父は徳が薄く、これを見習ってはいけない。『漢書』・『礼記』・『六韜(呂尚の兵法書)』・『商君書(商鞅の兵法書)』等々を読んでしっかり勉強せよ。これより丞相(諸葛亮)を父と思って仕えよ。些かも怠ったらばそなたらは不孝の子であるぞ」と言い遺して間もなく崩じた。享年63。



陳寿の評。「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、英雄の器を備えていたといえよう。国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、彼らの器量を考えた時、自分を何時までも許容し続けてくれるような人間だとは到底思えないがためにそうしたのである。単純に自分の利益だけを考えての事ではなく、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう」(「弘毅寛厚、知人侍士。蓋高祖之風、英雄之器焉。及其挙国託孤於諸葛亮、而心神無疑貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。機権幹略、不逮魏武、是以基宇亦狭。然折而不撓、終不為人下者、抑揆彼之量必不容己。非唯競利、且以避害云爾」『蜀志・先主伝』)

その子孫

劉備の子孫は、永嘉年間の八王の乱により劉禅の子孫は根絶やしにされたが、劉永の孫である劉玄のみ生き残った。彼はチベット系族の一派である巴の酋長の李雄が蜀で建国した成蜀に頼ったという。現在、劉備の子孫が中国の漁山郷という村にいるとされている。他にも曹操、孫権、諸葛亮の子孫が残った村が現在の中国各地に現存し、観光地となっている。

[編集] 三国志演義の劉備

『三国志演義』の中の劉備は、儒教的な道徳を体現するような君子として描かれている。

劉備が安熹県尉の時の督郵を縛り付けたエピソードは、演義では張飛がやったことになっており、劉備が張飛を諌めるエピソードが描かれている。またこの時、安熹県から逃れようとする劉備たちに領民たちが思いとどまるよう懇願するのが描かれている。

演義では、『雌雄一対の剣』・『的盧』を愛用している。

桃園結義は架空の出来事であるとされるが、劉備が関羽、張飛を兄弟のように遇したと、正史の三国志にも3人の仲について記述がある。

曹操に追われている時に逃げ込んだ家で、劉備をもてなす食料がなかった主人の劉安は、妻を殺害しその肉を差し出した。それに感動した劉備は、劉安を後年に高官にした(もしくはその家の主人の息子を養子(劉封)にした)と描かれている。

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張飛

無双OROCHIの武将 張飛

劉備や関羽と同様に無双OROCHIではある程度蜀のシナリオを進めないと使用できるようにならない。

クセのあるモーションがあるが、強力な攻撃を繰り出す。
個人的に劉備・関羽・張飛にはもう少しストーリーに絡んで欲しかった気もしますが、本作自体があり得ない外伝的なストーリーなので仕方ないといったところでしょうか。

本家の三国志や三国無双では大活躍をしていますしね。

武将紹介

武器:鉄矛
声:掛川裕彦 一人称:俺 字:翼徳

劉備、関羽と義兄弟になる。剛胆で豪放磊落な豪傑で武においては関羽を凌駕するほど。

無類の酒好きで短気だが、信義を重んずる一本気な性格。そのため、傍若無人を極める呂布へは強い敵意を隠さない。初陣に臨む愛娘・星彩の前では子煩悩な父親の素顔を見せた。

通常攻撃は非常に癖があり、また足も非常に遅いために、やや「通」向けのキャラであった。しかし、シリーズを重ねるにつれて、使い難さは徐々に改善されている。なお、敵として登場するときは、関羽同様に特別に強いことが多い。

張飛(ちょうひ、生年不詳 - 221年)は中国三国時代に劉備と彼の建国した蜀漢に仕えた武将。『三国志 (歴史書)』では姓は張、諱は飛、字は「益コ」で張益徳。なお、『三国志演義』では「翼コ」で張翼徳としている。封号は新亭侯。諡は桓侯。子に張苞・張紹、敬哀皇后・張皇后がいる。

郡(現在の河北省県)の人。同郡に住む劉備が黄巾の乱にのぞんで義勇兵を集めようとした時、関羽と共にその徒党に加わり、その身辺警護をつとめる事となった。以後は終生、劉備から兄弟の様な親愛の情を受けることとなった。また、関羽の方が数年年長であった為、関羽を兄のように敬愛して仕えていた。

やがて劉備が公孫に取り立てられて平原郡の相となると、関羽とともに別部司馬に任じられ、それぞれが一軍を率いる将となった。

194年、劉備は身を寄せていた徐州牧・陶謙に位を譲られて徐州の牧となる。が、袁術との戦いの最中、呂布に留守を突かれて敗北。劉備と呂布は一旦は和睦するも、その後再び呂布に攻められた為、曹操の元に身を寄せる。

呂布を討たんとする曹操の軍に劉備とともに従軍。張飛はその戦いでの功績を認められて、曹操より中朗将に任命された。その後、劉備が曹操に背き、袁紹、劉表に相次いで身を寄せると、それにも付き従って、各地で転戦した。

208年、荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に南下する。曹操を恐れた劉備が妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様の中、張飛は殿軍を任され、当陽の長坂において敵軍を迎えた。張飛が、川と二十騎の部下とを背にして橋を切り落とし、「我こそは張飛。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大声でよばわると、曹操軍の数千の軍兵はあえて先に進もうとはせず、このために劉備は無事に落ち延びることが出来た。

劉備は赤壁の戦いの後、周瑜に協力して荊州の南部四郡を攻略すると、張飛を宜都太守・征虜将軍として新亭侯に封じ、しばらくして南郡に転任させた。

211年、劉備が劉璋に招かれて益州入りした後、212年、法正らと謀って益州攻略を企てると、諸葛亮と共に援軍として後発。巴郡太守・厳顔を生け捕りにした。

張飛は、自身が大軍を率いてやってきたのに、厳顔が少数で抗い、降伏しなかったことに腹を立て、厳顔を詰問した。厳顔は「あなた方は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には首をはねられる忠臣は居ても、降伏する将軍はいないのだ」と張飛を面罵した。腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「首をはねるなら、さっさとすれば良い。どうして腹を立てることがあるのだ」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い、彼を釈放し、以後は賓客として扱った。

益州奪取における張飛の功績を劉備は評価し、諸葛亮・法正、そして荊州の留守を守った関羽らとともに金銀財宝を与え、巴西太守に栄転させた。

215年、曹操が漢中の張魯を降すと、張は巴西の住民を奪い、漢中へ移住させようと企てた。張飛は、張の軍と50日あまり対峙した後、精鋭の一万人ほどを率いて山道の隘路を利用して迎え撃つ計略を立てた。結果、張はその計略にはまり、狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破する事となる。こうして張飛は張の軍を撃退することに成功した。

219年、劉備が漢中を攻略すると、張飛は右将軍・仮節に任命された。

221年、劉備が蜀漢を建国すると、車騎将軍・司隷校尉・西郷公に昇進した。しかし同年、劉備が呉に対して荊州奪還戦の準備をしている最中、かねてから張飛に恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。劉備は張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。

260年、劉禅によって桓侯と諡された。

(ウィキペディアより引用)
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関羽

無双OROCHIの武将紹介 関羽

蜀の武将の代表とも言える人物。
無双OROCHIでは使えるようになるのは蜀編の後半以降からである。

重い動きだが強力な攻撃をする。



人物紹介

武器:偃月刀

声:増谷康紀 一人称:拙者 字:雲長

「桃園の誓い」で劉備、張飛と義兄弟になり、後に「五虎将」にも挙げられた。義を重んじ文武に長けた英雄の一人。その誇り高い生き様は敵対する魏の武将張遼・徐晃達からも尊敬を受けている。 養子・関平とは実子同然の絆を持ち、彼の成長していく様を喜びつつ見守っている。騎乗馬は呂布と同じ『赤兎馬』。

シリーズ毎によって使いやすさにばらつきがあるが、高い攻撃力と範囲の広い無双乱舞は共通である。敵として登場する時には、呂布同様に特別に強く設定されている事が多い。また、君主武将ではないが彼に対しての特殊な台詞が多いのも特徴である。

関羽(かんう ? - 219年)は中国三国時代の蜀漢の武将。字は雲長。元の字は長生。司隷・河東郡解良(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。封号は漢寿亭侯。諡は壮穆侯。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため「美髯公」などとも呼ばれる。子は関平・関興。

その武勇、曹操が義理堅いと評した事から、後世の人間が神格化し関帝(関聖帝君・関帝聖君)とし、47人目の神とした。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。

『三国志演義』では、「雲長叉は関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。


生涯と伝説

その生涯

彼の出身地は中国最大の塩湖である「解池」の近くにあり、その出身地から塩の密売に関っていたといわれている。また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれている。官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗った。その後、劉備・張飛と出会い、終生劉備に忠誠を尽くした。黄巾の乱の時からの劉備の部下。地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたという。

曹操が呂布を破った後、劉備が曹操を裏切って敗れ袁紹の元に逃げると、曹操の捕虜になった。ちょうど袁紹と曹操が戦っている最中であったが、曹操は関羽の武勇に惚れ込んでおり、どうしても関羽を手元に残したいと思った。功を立てると必ずや劉備のもとに戻ると考え、様々な贈り物をしたが、関羽はこれらを蔵に収めて封印してしまった。白馬の戦いでは、敵将の顔良を大軍の真っ只中で討ち取った。その功績を置き土産にして、袁紹の下にいる劉備の下へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。このとき、張遼も関羽を説得している。

赤壁の戦いの後、劉備が益州を攻略すると、関羽は荊州の守備を任され、魏・呉に睨みを効かせていた。彼の荊州の統治ぶりは、呉志『陸遜伝』によれば、恩得と威信が行き渡っていたものであったようだ。しかし関羽は部下には優しいが、同格の士大夫を見下すという悪い癖があり、このことが後に彼自身の災いを招くこととなる(関羽は庶人から成り上がっており、もともと士大夫より低い身分だった。反対に張飛は部下には苛酷だが、士大夫は尊敬するという性格であった)。

215年に、呉の魯粛・呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、関羽は三万の兵を率いて益陽に布陣。劉備も大軍を率いて関羽の助成に駆けつけ、一時は蜀呉同盟の崩壊の危機に至った。だが、関羽と通じた長沙の安成、攸、茶陵の三県、揚州廬陵の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、続けて中郎将の袁龍・安成の長呉が反乱を起こしたこと、さらにこの年、曹操が大軍を率いて漢中の張魯を攻撃したこと、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した。結果、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は呉領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が蜀領となった。

219年、劉備が漢中王を称し、関羽は前将軍・仮節に任じられた。この年、関羽は水陸両軍を率い、息子の関平、都督の趙累らとともに樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍を率いた于禁が駆けつけるが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没。関羽は船団を率いて攻撃をかけ、于禁を降伏させ、徳を斬った。また、このとき魏の荊州刺史・胡修、南郷太守・傅方らが関羽に降っている。関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して襄陽までも包囲した。さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、魏領内の群盗などが一斉に蜂起。魏丞相掾・魏諷までもが関羽に通じて反逆を起こし、中原は震動。曹操は遷都まで考えたほどであった。だがそれより前、呉の孫権から関羽の娘に、彼の息子との婚姻の申し入れがあったとき、関羽は「虎の娘を犬の子にはやらん」と言って断り(この発言は『三国志演義』等に見られるが、正史には見られない)、孫権を怒らせたことがあった。曹操の部下、司馬懿は関羽と孫権の仲が悪くなったことを見計らって呉と同盟を結んだ。これで逆に魏と呉の軍に挟撃されてしまう事になる。さらに孫権は、関羽に不満を持っていた麋芳と傅士仁に誘いをかけ寝返らせた。一方の魏も徐晃を派遣して曹仁を救援させた。関羽は結局勝利を得ることができず敗走した。さらに荊州の江陵城を孫権に奪われ、ついに臨沮で関羽と関平は退路を断たれ、呂蒙、陸遜の策をもって潘璋の部下・馬忠の罠により捕らえられ、呂蒙、陸遜らによって斬首された。一説では、孫権は関羽の武勇を惜しみ、部下として使いたいと願ったが、側近にたしなめられたとされている。

関羽の首は、孫権の使者によって曹操のもとへ送られ、曹操は国葬という諸侯の礼をもって彼を葬った。曹操によるこの処置は異例の事であった。蜀に対する外交政策にもとれるが、曹操が関羽を欲しがり、恐れていたことを考えると心から礼節を尽くしたといえる。曹操はこの式の後、然程間を置かずに病死している。

また、この戦で大功を立てた呉都督・呂蒙は、関羽の死から二ヵ月後に、かねてからの病がぶり返して死んだ。 関羽の恩徳を慕った民衆は、呂蒙・曹操や、その他の樊城攻撃に携わった人間達が、次々と死んでいく様を「関公(関羽の敬称)の祟りだ」と噂し、後世にも伝わる関羽伝承をまことしやかに語ったという。

関羽を殺された劉備は怒りのあまり、呉に対して夷陵の戦いを起こしたが、大敗を喫した。

260年、蜀漢より壮穆侯の諡号を送られた。

263年に蜀が滅び鍾会のクーデターによって無法状態になった成都で徳の子・会によって関羽の一族は誅殺されたと言われているが、定かではない。ちなみに、今現在関羽62代目の子孫を名乗る関新剛が中国に存在するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である。

人物

武を誇る一方で、学問を好み、『春秋左氏伝』を諳んじるなど文武両道の面を持っていた。また敵方でありながら張遼、徐晃とは親交があり、彼らとは互いに尊敬しあっていた。 同時代の人々からは関羽の武勇は張飛と並んで一万の敵に相当するといわれているが、一方では、「自分の勇名を恃んで猪突猛進してしばしば兵を失う」(蜀書・廖立伝)という批判もあった。

三国志を著した陳寿は、正史・関羽伝の最後に張飛の人物評と併せてこのように記述している。「関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は顔良を斬ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。しかし、関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、あえなく最期を遂げる事となった。世の理とは、こういうものなのだ」(「関羽張飛皆称万人之敵、為世虎臣。羽報效曹公、飛義釈厳顔。並有国士之風。然羽剛而自矜、飛暴而無恩、以短敢敗。理数之常也」蜀志・関羽伝)

また算盤(そろばん)を開発したという伝説がある。おそらく関羽が刑州にいた頃に開発された。商売を発展させ、人口を増やそうとして開発したと思われる。

三国志演義では

『三国志演義』では、関羽は青龍偃月刀と呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨っていた。主人公的存在だけあって、史実に比べ、活躍は非常に華々しいものとなっている。講談や元曲・京劇(戯曲)などでの創作が、積極的に取り入れられていると思われる。たとえば、

* 董卓配下の猛将華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話
* 袁紹軍の顔良のみならず、その同僚文醜をも討ち取った話
* 曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に見とがめられて、6人の将軍を斬り殺して突破した話
* 赤壁の戦い後、敗走する曹操軍を華容道で待ち伏せするが、検問突破を不問に付した恩義を衝かれ、見逃した話
* 矢傷で重病となったために華佗の治療を受けた事項
* 孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話

など、全て創作である。

矢傷の治療を受けた話は、正史にも類似した話があり、演義同様毒の染みた肘の骨を削り取る際、客をもてなし、酒肴を口にしながら談笑して、全く痛むそぶりを見せなかったとある(但しこの時の医者は華佗ではない)。

また、養子として関平が、次男として関興、三男として関索が出てくる。正史によれば、関平は実子である。関興は諸葛亮にその才能を評価されていたものの二十数歳で亡くなっていた様である。関索に至っては正史やその註にも一切記載が無く、後世に作られた伝承「花関索伝」の登場人物を流用したもので、実在しない人物だと言われている。

死後は呂蒙を呪い殺したとされるが、義理堅い関羽の印象にそぐわず、また非現実的であることなどから近年では削除される事もある。

呂蒙を呪い殺したとされる内容は孫権は祝宴をひらいて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、呂蒙に親しく杯を渡し、呂蒙は恭しく杯を受け取ったが突然杯を地面に叩きつけるなり孫権の胸倉を掴んで押し倒し「我こそは関羽なるぞ。」と大喝した。一同が顔色を変えて平伏すると呂蒙はばったりと倒れて血を吐いて死んだという。関羽の魂が乗り移ったと言われている。

関羽が呉に斬首された後に、玉泉山の普浄という僧の前に関羽の霊と同じくして死んだ関平と周倉と家臣の霊とともに現れ呉や呂蒙に対する恨みを綴ったが、普浄の説得により成仏するという話もある。ちなみに普浄という人物は話によって、関羽を以前助けた人物だとも、関羽死後百年後にいた人物だと言われており、年代が定まっていない。

ウィキペディアから引用
posted by 無双OROCHIを攻略して遊ぶ人 at 21:42| 武将紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

趙雲

無双OROCHIの武将 趙雲

本作の蜀シナリオの主人公とも言える人物
結構使いやすいクセのないキャラクターだと思います。

三国無双シリーズではおなじみのキャラクターですね。

(以下ウィキペディアより引用)

趙雲(ちょううん Zhao Yun ? - 229年)は中国、後漢末から三国時代の武将。字は子龍。常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡は順平侯。子は趙統・趙広がいる。父と兄の名は不詳。

正史

正史の注釈にある『趙雲別伝』(現在は散逸)によると、趙雲は身長八尺、姿や顔つきが際立って立派だった。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫の配下となった。

公孫が袁紹と戦っている田楷の援軍として劉備を派遣した際に随行し、劉備の騎兵隊長となった。

『趙雲別伝』によると、その後趙雲は兄の喪のために公孫の元を辞して故郷に帰ることとなり、劉備は趙雲が戻ってこないことを悟った、とある。(192年に常山郡が袁紹の手に移ったのが理由であろうか) 劉備が袁紹を頼ると(200年)、趙雲はで劉備と久しぶりに目通りし、密かに募った数百人の兵を連れて劉備の配下となった。

建安13年(208年)、劉備が曹操の大軍に追われて逃走した時、荊州の当陽県長坂で趙雲は劉備の息子阿斗(後の劉禅)を自ら抱え、また甘夫人(劉備夫人)を保護した。牙門将軍に昇進した。

同年、荊州平定に参加し、偏将軍、桂陽太守となった。

劉備の蜀入りの際には荊州に留まったが、建安18年(213年)、諸葛亮に率いられて張飛とともに長江をさかのぼって入蜀し、各郡県を平定した。趙雲は江州(重慶)からは別の川を通って江陽に上った。蜀が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。

221年、孫権を討とうとする劉備を諫めるが聴き容れられず、趙雲は江州に留まった。

蜀漢の建興元年(223年)には中護軍・征南将軍に昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。

同5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。翌228年、諸葛亮は斜谷街道を通ると宣伝し、魏の曹真はこれを真に受けて大軍でおしよせた。趙雲はケ芝とともにその相手をする囮となり、諸葛亮は祁山を攻めた。趙雲とケ芝は箕谷で敗北したものの、軍兵をとりまとめてよく守り、大敗には至らなかった。しかし敗北の責任として鎮軍将軍に降格された。ただし、「趙雲別伝」によれば、諸葛亮は趙雲の功績を喜び、絹を差し上げようとしたと記されている。

翌229年没した。長男の趙統が後を継いだ。

261年、趙雲は順平侯の諡を追贈された。『趙雲別伝』より姜維らの進言にいう、

「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順と称し、仕事をするのに秩序があるのを平と称し、災禍・動乱を平定するのを平と称します。趙雲に順平侯の諡号を賜るのが至当と存じます」

三国志演義

『演義』において、趙雲は正史に比べて記述が多く、五虎大将軍の一人として、非常に勇猛かつ義に篤い、武芸の達人として描かれている。

長坂では単騎で大軍の中を駆け抜け劉禅と甘夫人を救出し(麋夫人は井戸に身投げして自殺)、漢中攻め(定軍山の戦い)では黄忠を救出し見事な撤退戦と空城計を演じ、劉備から「子龍は一身これ胆なり(子龍は全身すべてが胆のようである)」と賞賛され、軍中では虎威将軍と呼ばれるようになる。これらの活躍の多くは『趙雲別伝』を取り上げたものである。漢中攻めのエピソードは『資治通鑑』にも残っている。

『趙雲別伝』には他にも、桂陽を攻略した時に降伏してきた太守の趙範が自らの兄嫁(未亡人)との結婚を勧めたが「趙範はせっぱつまって投降したのであるから信用できない」と言って断った話(その後趙範はやはり逃亡した)や、益州支配後に劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際反対したとの記載がある。

劉備が入蜀の際に趙雲を留営司馬に任じ、奥向きのことを取り締まらせたことなどからも、趙雲が厳格な性格であったとされる。

正史と演義の異同

演義で五虎大将軍と並び称された趙雲であるが、史実の上では五人中最も位が低い。劉備が皇帝として即位した際、関羽・黄忠・馬超・張飛はそれぞれ前後左右の将軍位を授かっているのに対し、当時趙雲の官爵は翊軍将軍のままであった。

また、本伝中の記述がやや簡素なのに比べ『趙雲別伝』のそれは活躍を賛美する記述が非常に多く、清の史学者・何は「趙雲別伝とは趙家の家伝を改編したものではないか」と疑問を呈している。
posted by 無双OROCHIを攻略して遊ぶ人 at 21:20| 武将紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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